2025.03.10

Memorial dof talk Vol.2<前編> 
弔辞を読んだ同志が語る、大島征夫。

Memorial dof talk Vol.2<前編> 
弔辞を読んだ同志が語る、大島征夫。

7月に亡くなったdof会長/クリエイティブ・ディレクターの大島征夫。そんな大島の不世出のキャラクターや考え方を少しでも世に遺していくために。”Memorial dof talk”と題した本企画では、生前大島と親しかった方々から、印象に残るエピソードや、みなさんから見た「大島征夫」という人物像を伺っています。連載第二回にあたる今回は、大島の葬儀でも弔辞を読んで頂いた、先輩にあたる小田桐昭さんと、親友の橘益夫さん、二人の「同志」にお話を伺いました。
若かりし日の大島を知るお二人から、果たしてどんなお話が飛び出すのか。どふぞハイボール片手にお楽しみください。

7月に亡くなったdof会長/クリエイティブ・ディレクターの大島征夫。そんな大島の不世出のキャラクターや考え方を少しでも世に遺していくために。”Memorial dof talk”と題した本企画では、生前大島と親しかった方々から、印象に残るエピソードや、みなさんから見た「大島征夫」という人物像を伺っています。連載第二回にあたる今回は、大島の葬儀でも弔辞を読んで頂いた、先輩にあたる小田桐昭さんと、親友の橘益夫さん、二人の「同志」にお話を伺いました。
若かりし日の大島を知るお二人から、果たしてどんなお話が飛び出すのか。どふぞハイボール片手にお楽しみください。

座談会参加メンバー

座談会参加メンバー

ぶつかりあいが深めた信頼。
家族がつないだ友情。

ぶつかりあいが深めた信頼。
家族がつないだ友情。

ー まずはお二人から読者のみなさんへ向けて、自己紹介をいただいてもよろしいでしょうか?

ー小田桐さん
小田桐昭です。電通時代の大島とぼくの関係は上司と部下でした。とても部下とは言いづらい部下でしたけど(笑)。いまはCMプランナーとイラストレーターを東銀座の事務所でやっています。

ー まずはお二人から読者のみなさんへ向けて、自己紹介をいただいてもよろしいでしょうか?

ー小田桐さん
小田桐昭です。電通時代の大島とぼくの関係は上司と部下でした。とても部下とは言いづらい部下でしたけど(笑)。いまはCMプランナーとイラストレーターを東銀座の事務所でやっています。

ー橘さん
橘益夫です。現在は一般社団法人IKIGAIプロジェクトという法人を電通のOB4名とはじめて11年目になります。やっていることは、ひとつは社会貢献事業。保護犬、保護猫の動物支援や、植林の支援事業などです。一方では企業のコンサルタントもやっています。
大島との出会いは電通時代で、ぼくが営業で、当時は大島がコピーライターでした。

ー齋藤
橘さんは、ぼくの電通時代の上司でもあります。ぼくが営業だったころの担当役員で、上司というには立場がだいぶ離れていましたが、可愛がって頂きました。




ー橘さん
橘益夫です。現在は一般社団法人IKIGAIプロジェクトという法人を電通のOB4名とはじめて11年目になります。やっていることは、ひとつは社会貢献事業。保護犬、保護猫の動物支援や、植林の支援事業などです。一方では企業のコンサルタントもやっています。
大島との出会いは電通時代で、ぼくが営業で、当時は大島がコピーライターでした。

ー齋藤
橘さんは、ぼくの電通時代の上司でもあります。ぼくが営業だったころの担当役員で、上司というには立場がだいぶ離れていましたが、可愛がって頂きました。




ー まずは大島さんとの出会いや当時の第一印象を教えていただけますか?

小田桐さん
橘さんがいちばん関係が長いんじゃない?

ー橘さん
そうかもしれないですね。最初の出会いは、トヨタ自動車の『レーザーキャンペーン』ですかね。その頃、日産が先行して企業広告をやっており、「トヨタも技術広告をやりたいよね」という話をしていました。そんな時に、トヨタがレーザーエンジンという新しいエンジンを開発したので、これで企業広告をやろうと。当時、ぼくが営業としてその案件を担当していて、大島がコピーライターとしてプロジェクトに入ってきた。1981年のことでした。
第一印象は、「めんどくさいやつと仕事することになったな」と思いましたね(笑)。やんちゃだし、わがままだし、気分屋だしね。企業広告をつくる時に、エンジンの技術のことを営業として説明するじゃないですか?すると当時から車に詳しかった大島は、「エンジンのことをお前に聞く必要ないよ」って、そんな感じだった(笑)

一同
(笑)

ー橘さん
そうするとこっちもカチンとくるよね(笑)。まあそれで、まずはエンジンのネーミングを考えていったわけだけど、営業も案を考えていくわけですよ。そうすると、大島が全部その案をはねたりね(笑)。そんなこともありました。結果、Lightweight Advanced Super Responce Engineというワードの頭文字をとって、“LASRE”(レーザー)という名前に決まって、キャンペーンをスタートしていくことになりました。

ー齋藤
大島さんっぽいエピソードですね(笑)




ー まずは大島さんとの出会いや当時の第一印象を教えていただけますか?

小田桐さん
橘さんがいちばん関係が長いんじゃない?

ー橘さん
そうかもしれないですね。最初の出会いは、トヨタ自動車の『レーザーキャンペーン』ですかね。その頃、日産が先行して企業広告をやっており、「トヨタも技術広告をやりたいよね」という話をしていました。そんな時に、トヨタがレーザーエンジンという新しいエンジンを開発したので、これで企業広告をやろうと。当時、ぼくが営業としてその案件を担当していて、大島がコピーライターとしてプロジェクトに入ってきた。1981年のことでした。
第一印象は、「めんどくさいやつと仕事することになったな」と思いましたね(笑)。やんちゃだし、わがままだし、気分屋だしね。企業広告をつくる時に、エンジンの技術のことを営業として説明するじゃないですか?すると当時から車に詳しかった大島は、「エンジンのことをお前に聞く必要ないよ」って、そんな感じだった(笑)

一同
(笑)

ー橘さん
そうするとこっちもカチンとくるよね(笑)。まあそれで、まずはエンジンのネーミングを考えていったわけだけど、営業も案を考えていくわけですよ。そうすると、大島が全部その案をはねたりね(笑)。そんなこともありました。結果、Lightweight Advanced Super Responce Engineというワードの頭文字をとって、“LASRE”(レーザー)という名前に決まって、キャンペーンをスタートしていくことになりました。

ー齋藤
大島さんっぽいエピソードですね(笑)

ー橘さん
大島とは常にぶつかっていましたね。なにせ、大島はクルマが好きだし、クルマのこともよく分かっていたからね。「お前たちの話を聞く必要はない、クルマのことはオレに任せておけ」というスタンスでしたから。よく言えばアニキ肌なんだけど、こっちだって冗談じゃないっていう気持ちになるわけです。クライアントからの依頼は営業が受けているっていうプライドもありますから。

ー それからどのように大島さんとの仲を深めていったのですか?

ー橘さん
大島と信頼関係ができるまでは結構時間がかかりました。レーザーがスタートして、2年後かな。「技術の話をやるならサスペンションだ」って大島が言い出して、トヨタに色んな話を聞きに行って、「ペガサス」というネーミングを大島が考えて…。そんな過程を側で見ていて、「流石、クルマのことを分かっていて、なかなかやるな」と思うようになった。営業としても、新しいコンセプトやキーワードを提案するのはワクワクしましたし。ただ仕事のプロセスでこちらの言い分に耳を貸さないというのは相変わらずでした。だから酒を飲みにいくというようなことは、その頃まではそんなになかった。

ー まだ信頼というまでには至ってなかったと。

ー橘さん
そう。それで、その後トヨタのモーターショーで「レーザー&ペガサス」をメインに展示をすることになって、新しい展示方法にチャレンジしたいと思って大島を仲間に入れた。そうすると、彼もそれまで空間ということはあまりやってこなかったから、一緒になってワクワクしながらプランニングしていくことになるわけです。そうなるとふつうの広告キャンペーンを考えるよりも時間軸も長いし、半年以上いっしょに企画から実施までをやることになるので、共に過ごす時間が長くなり、酒を飲んだり、遊んだりするようになっていきました。信頼し合うようになったんです。大島もぼくの言うことやトヨタに対する姿勢なんかを認めてくれるようになって、まあ時には文句も言いながら(笑)、一緒になって作りあげたり、一緒になって闘ったりするようになっていった。

ー橘さん
大島とは常にぶつかっていましたね。なにせ、大島はクルマが好きだし、クルマのこともよく分かっていたからね。「お前たちの話を聞く必要はない、クルマのことはオレに任せておけ」というスタンスでしたから。よく言えばアニキ肌なんだけど、こっちだって冗談じゃないっていう気持ちになるわけです。クライアントからの依頼は営業が受けているっていうプライドもありますから。

ー それからどのように大島さんとの仲を深めていったのですか?

ー橘さん
大島と信頼関係ができるまでは結構時間がかかりました。レーザーがスタートして、2年後かな。「技術の話をやるならサスペンションだ」って大島が言い出して、トヨタに色んな話を聞きに行って、「ペガサス」というネーミングを大島が考えて…。そんな過程を側で見ていて、「流石、クルマのことを分かっていて、なかなかやるな」と思うようになった。営業としても、新しいコンセプトやキーワードを提案するのはワクワクしましたし。ただ仕事のプロセスでこちらの言い分に耳を貸さないというのは相変わらずでした。だから酒を飲みにいくというようなことは、その頃まではそんなになかった。

ー まだ信頼というまでには至ってなかったと。

ー橘さん
そう。それで、その後トヨタのモーターショーで「レーザー&ペガサス」をメインに展示をすることになって、新しい展示方法にチャレンジしたいと思って大島を仲間に入れた。そうすると、彼もそれまで空間ということはあまりやってこなかったから、一緒になってワクワクしながらプランニングしていくことになるわけです。そうなるとふつうの広告キャンペーンを考えるよりも時間軸も長いし、半年以上いっしょに企画から実施までをやることになるので、共に過ごす時間が長くなり、酒を飲んだり、遊んだりするようになっていきました。信頼し合うようになったんです。大島もぼくの言うことやトヨタに対する姿勢なんかを認めてくれるようになって、まあ時には文句も言いながら(笑)、一緒になって作りあげたり、一緒になって闘ったりするようになっていった。

ー齋藤
橘さんは大島さんの奥さまの和子さん(大島の夫人。2008年に他界)とも、家族ぐるみで仲良くされてきましたよね。

ー橘さん
大島と本当に仲良くなるきっかけになったのが、お互いの妻の存在でした。ある時、大島と和子さんとボクと、ボクの妻とで食事をしようとなって、鍋を食べに行ったんです。そこで、和子さんから色々な大島の話を聞いたり、ボクの妻もボクのことを語ったりして、それまでの仕事場とは違う関係ができあがった。その頃から仕事の信頼関係だけではなくて、いい意味での友人関係がはじまった気がします。
そのあたりで実はボクのほうが1つ年下だったっていうのが分かったんです(笑)。彼は昔から少年みたいに若々しいから年が分からなかったんだよね。それである日「橘、おれ実はお前より先輩なんだ」って告白されてね(笑)。その時には「じゃあ、明日から大島さんだな」って言ったりしてたんだけど、翌日になると照れちゃって。その後も大島の呼び捨てで通すようになりましたね。

 

ー齋藤
橘さんは大島さんの奥さまの和子さん(大島の夫人。2008年に他界)とも、家族ぐるみで仲良くされてきましたよね。

ー橘さん
大島と本当に仲良くなるきっかけになったのが、お互いの妻の存在でした。ある時、大島と和子さんとボクと、ボクの妻とで食事をしようとなって、鍋を食べに行ったんです。そこで、和子さんから色々な大島の話を聞いたり、ボクの妻もボクのことを語ったりして、それまでの仕事場とは違う関係ができあがった。その頃から仕事の信頼関係だけではなくて、いい意味での友人関係がはじまった気がします。
そのあたりで実はボクのほうが1つ年下だったっていうのが分かったんです(笑)。彼は昔から少年みたいに若々しいから年が分からなかったんだよね。それである日「橘、おれ実はお前より先輩なんだ」って告白されてね(笑)。その時には「じゃあ、明日から大島さんだな」って言ったりしてたんだけど、翌日になると照れちゃって。その後も大島の呼び捨てで通すようになりましたね。

 

『クリエイティブ・ディレクター』を
つくった二人の出会い。

『クリエイティブ・ディレクター』を
つくった二人の出会い。

ー 小田桐さんからも、大島さんとの出会いのお話を伺えますでしょうか?

ー小田桐さん
最初の出会いは、いつだったかな?電通全体のクリエイティブ作品を見る『木曜研修会』というのがあって、酒を飲みながら作品を見たりしていたんです。悪口なんかを言いながらね(笑)。そこで大島の仕事も見ていたから、会う前から彼の名前は知っていました。ただそこまでお互いに話すような仲ではなかった。最初のきっかけは、大島がぼくのところに「クリエイティブ・ディレクションの研究会をやりたい」と言いに来たことですかね。その時が彼との本当の付き合いのはじまりです。
もうひとつ決定的なのは、僕がトヨタさんの担当CDになったことです。ぼくは酒飲みでクルマに乗らないと決めていたので、もちろん免許なんてありません。絶対にクルマを担当することはないと思っていたのですが、局の事情でやむなく担当することになったのです。それで、会社の上の人に頼んで大島さんに別の局から応援に来てもらい助けてもらうことにしました。その時に、大島部の佐々木宏さんと太田恵美さんも一緒に来てもらいました。

ー 小田桐さんからも、大島さんとの出会いのお話を伺えますでしょうか?

ー小田桐さん
最初の出会いは、いつだったかな?電通全体のクリエイティブ作品を見る『木曜研修会』というのがあって、酒を飲みながら作品を見たりしていたんです。悪口なんかを言いながらね(笑)。そこで大島の仕事も見ていたから、会う前から彼の名前は知っていました。ただそこまでお互いに話すような仲ではなかった。最初のきっかけは、大島がぼくのところに「クリエイティブ・ディレクションの研究会をやりたい」と言いに来たことですかね。その時が彼との本当の付き合いのはじまりです。
もうひとつ決定的なのは、僕がトヨタさんの担当CDになったことです。ぼくは酒飲みでクルマに乗らないと決めていたので、もちろん免許なんてありません。絶対にクルマを担当することはないと思っていたのですが、局の事情でやむなく担当することになったのです。それで、会社の上の人に頼んで大島さんに別の局から応援に来てもらい助けてもらうことにしました。その時に、大島部の佐々木宏さんと太田恵美さんも一緒に来てもらいました。

▲ DDBの代表作として知られるフォルクスワーゲンの広告“Think Small”

▲ DDBの代表作として知られるフォルクスワーゲンの広告“Think Small”

ー齋藤
弔辞でも、小田桐さんは、「大島さんが日本でクリエイティブ・ディレクターという職能を作った」と仰っていましたね。

ー小田桐さん
大島と出会った頃は、電通のクリエイティブ・ディレクターというのは部長の呼び名に過ぎませんでした。たとえば大島部であれば、大島部長ではなく大島クリエイティブ・ディレクターという肩書になるっていう具合です。だからディレクションをしなかったとしてもクリエイティブ・ディレクターを名乗れたし、クリエイティブ・ディレクターという肩書が持つ、クリエイティブへの知見や技術をきちんと規定していなかった。
また、当時は広告代理店クリエイティブの遅い黎明期でもありました。たとえば、ぼくがADC(アート・ディレクターズ・クラブ)に入会した時も、広告代理店の人はすごく少なくて、他の人からは「電通にいて、いいクリエイティブなんてできるわけないじゃん」と言われていたような時代です。当時の電通のクリエイティブはまだそこまで認められていなくて、広告代理店の機能というもの自体がまだみんな分からない、そういう時代だったんです。
だけど、ぼくはDDB(アメリカの広告代理店。フォルクスワーゲンのキャンペーンなどで知られる)などアメリカの広告をずっと見ていて。アメリカの広告代理店の、クリエイティブを中心にしたビジネスのスタイルを見た時に、日本でも広告代理店のクリエイティブの時代は必ず来ると思っていたんです。ブティックのように個人で作業するには限界があるとも考えていましたから。

 

ー齋藤
弔辞でも、小田桐さんは、「大島さんが日本でクリエイティブ・ディレクターという職能を作った」と仰っていましたね。

ー小田桐さん
大島と出会った頃は、電通のクリエイティブ・ディレクターというのは部長の呼び名に過ぎませんでした。たとえば大島部であれば、大島部長ではなく大島クリエイティブ・ディレクターという肩書になるっていう具合です。だからディレクションをしなかったとしてもクリエイティブ・ディレクターを名乗れたし、クリエイティブ・ディレクターという肩書が持つ、クリエイティブへの知見や技術をきちんと規定していなかった。
また、当時は広告代理店クリエイティブの遅い黎明期でもありました。たとえば、ぼくがADC(アート・ディレクターズ・クラブ)に入会した時も、広告代理店の人はすごく少なくて、他の人からは「電通にいて、いいクリエイティブなんてできるわけないじゃん」と言われていたような時代です。当時の電通のクリエイティブはまだそこまで認められていなくて、広告代理店の機能というもの自体がまだみんな分からない、そういう時代だったんです。
だけど、ぼくはDDB(アメリカの広告代理店。フォルクスワーゲンのキャンペーンなどで知られる)などアメリカの広告をずっと見ていて。アメリカの広告代理店の、クリエイティブを中心にしたビジネスのスタイルを見た時に、日本でも広告代理店のクリエイティブの時代は必ず来ると思っていたんです。ブティックのように個人で作業するには限界があるとも考えていましたから。

 

ー齋藤
大島さんも当時、DDBや海外のエージェンシーのことを研究されていたそうですね。

ー小田桐さん
そう、大島も同じ時期に、同じような課題意識を感じていた。だからぼくに研究会をやろうと声をかけて来たんだと思います。電通に来る前に彼はマッキャンエリクソンにいました。外資系代理店出身の人は最初からキャンペーン意識を持っていて、クリエイティブ・ディレクションという技術への感覚を持っていたんですね。1990年代に入り、モノが動かなくなってきて、キャンペーンやブランドが重視されはじめた時に、ぼくがキャンペーンやクリエイティブ・ディレクションという分野で唯一頼りにしていた論客が大島征夫でした。
大島はキャンペーンやクリエイティブ・ディレクションに対して、技術論を持っていました。実はぼくはクリエイティブ・ディレクションを大島から習ったんです。というより、学んだという方が正確かもしれません。

ー と言いますと、どういうことでしょうか?

ー小田桐さん
国鉄がJRになった時に、JR東日本のクリエイティブ・ディレクターを大島に頼んで、最初にプレゼンに行った時のことです。
当時はパソコンもなかったので、紙に書いてプレゼンをしていたんですが、その時大島がはじめにクライアントに「こういう風になりたいですよね」と、たったの一行が書かれた紙を見せたんです。そこには“City Train”と書いてあった。
当時のJR東日本の主要駅は東北方面への玄関口とも言える、上野駅でした。東北はなんとなくですが、寒くて、雪深くて、暗いところという印象がある。また、管轄する中央線や山手線も「国電」と言われている時代で、満員電車でギュウギュウ詰めにされるし、通勤するのも大変。少し貧しいイメージがあった。だからこそ、スマートで都市的で憧れられるインフラ=”City Train” になるという、変わるべき意義や価値を提示したんです。

ー齋藤
なるほど。

ー齋藤
大島さんも当時、DDBや海外のエージェンシーのことを研究されていたそうですね。

ー小田桐さん
そう、大島も同じ時期に、同じような課題意識を感じていた。だからぼくに研究会をやろうと声をかけて来たんだと思います。電通に来る前に彼はマッキャンエリクソンにいました。外資系代理店出身の人は最初からキャンペーン意識を持っていて、クリエイティブ・ディレクションという技術への感覚を持っていたんですね。1990年代に入り、モノが動かなくなってきて、キャンペーンやブランドが重視されはじめた時に、ぼくがキャンペーンやクリエイティブ・ディレクションという分野で唯一頼りにしていた論客が大島征夫でした。
大島はキャンペーンやクリエイティブ・ディレクションに対して、技術論を持っていました。実はぼくはクリエイティブ・ディレクションを大島から習ったんです。というより、学んだという方が正確かもしれません。

ー と言いますと、どういうことでしょうか?

ー小田桐さん

国鉄がJRになった時に、JR東日本のクリエイティブ・ディレクターを大島に頼んで、最初にプレゼンに行った時のことです。
当時はパソコンもなかったので、紙に書いてプレゼンをしていたんですが、その時大島がはじめにクライアントに「こういう風になりたいですよね」と、たったの一行が書かれた紙を見せたんです。そこには“City Train”と書いてあった。
当時のJR東日本の主要駅は東北方面への玄関口とも言える、上野駅でした。東北はなんとなくですが、寒くて、雪深くて、暗いところという印象がある。また、管轄する中央線や山手線も「国電」と言われている時代で、満員電車でギュウギュウ詰めにされるし、通勤するのも大変。少し貧しいイメージがあった。だからこそ、スマートで都市的で憧れられるインフラ=”City Train” になるという、変わるべき意義や価値を提示したんです。

ー齋藤
なるほど。

ー小田桐さん
目指すべきイメージを最初に提示して、そこへ向かってなにをするかというのを組み立てていく。これはちゃんとした技術だなと思いました。大島のプレゼンテーションを見て、「なるほど、クリエイティブ・ディレクションとはこういうことだったんだ」と。

ー齋藤
最初に目指すべき北極星を掲げて、そこへの道筋を描くというのは、大島さんから受け継いで私たちがdofが今でも実践している技でもあります。

ー小田桐さん
大島がどう思っているか分かりませんけど、彼はぼくの先生であり、かわいい弟であり、広告代理店黎明期を一緒に闘ってきた戦友でした。

 

ー小田桐さん
目指すべきイメージを最初に提示して、そこへ向かってなにをするかというのを組み立てていく。これはちゃんとした技術だなと思いました。大島のプレゼンテーションを見て、「なるほど、クリエイティブ・ディレクションとはこういうことだったんだ」と。

ー齋藤
最初に目指すべき北極星を掲げて、そこへの道筋を描くというのは、大島さんから受け継いで私たちがdofが今でも実践している技でもあります。

ー小田桐さん
大島がどう思っているか分かりませんけど、彼はぼくの先生であり、かわいい弟であり、広告代理店黎明期を一緒に闘ってきた戦友でした。

 

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